そして私はニートになった… その9 卑屈になっていく自分

仕事も無い、友人もいない。生きているのが辛い、でも死ぬのは恐い、でも死にたい。そう思いながらハローワークに通う日々…失業保険を受け取る為に


そんな日々を続けていたら、仕事の繋がりから連絡があり、お給料は少ないが暇なら手伝ってくれないか?と相談されました、やる事のなかった私は2つ返事で伺いました、何もなかった自分は必要とされただけで嬉しかったんです。条件は労働基準法には思い切り引っかかる賃金内容でしたが、必要とされただけで良かった。けれど、そんな内容でもしっかりと働いていたので、他の方からも声がかかり、様々な仕事をさせて頂き、その時私は何でも屋の状態でした。定番の交通調査、家具作り、カギの取り付け、下水掘り、運転手、スズメバチ駆除の補佐、祭の準備や手伝い。賃金の発生するものしないもの、とにかく求められれば何でもやりました。


しかし、どうしても断りたかったが断り切れなかった仕事がありました。それは夜の飲み屋さんのお仕事でした。女の子を数名抱える小さなクラブの店長の様なお仕事…、私はお酒が飲めません。そして、女性に対するのも苦手でした。何度も断ったのですが、元の店長が逃げ出し、店を開けられなくて困っていると頼まれ断れず、条件を付けてその仕事を受けました。その条件とは、その店と別に正規でやっている広告代理店で昼働かせてもらい、夜の店は店長が見つかり次第辞めさせて貰う事でした。昼の方も人手が多少必要だったらしく喜んで受け入れられました。



※私が無理な仕事でも受け、実行してきたのは、将来的なものを見据えて投資していたからではなく、本当にダメだったら死ねばいいや、との後ろ向きな気持ちがありました。悲しむ人は親くらいだし、親も悲しくても、兄や弟がいるから1人出来損ないが減っても別に大丈夫だろう、むしろ私が死ねば保険金も入るし、返ってそのほうが良いだろうと思っていました。そしてそれは今も同じです。

そして私はニートになった… その8 続無知故に簡単に切り捨てられる

仕事の人間関係も崩れ始めた頃、私を気にかけてくれていた課長が病気で亡くなります。この課長は私が学校を辞めた時、嘘をついてアルバイトしていた時、嘘を知りつつ面倒を見てくれた方でした。


課長さんが亡くなり暫くした頃、私と私を良く思わない上司とで揉め事が起こります。きっかけは、私の態度が気に喰わないと言うのが始まりでした、そこから始まり私は殴る蹴るの暴行を受けます、抵抗はしましたが(この抵抗が良くなかった)、体格の差もあり一方的にやられてしまいます。最終的に顔面を金網に叩きつけられそうになった時に、当時の所長が止めてくれて助かりました、瞼ははれボクサーの試合終了後の様な顔になりましたが、お客さんには派手に転んでぶつけたとごまかし、そのまま働き続けたのを覚えています。

勿論それぞれ事情聴取され、私はありのまま伝えました、多少抵抗した事も正直に話しました。しかし、話に食い違いがあり、私はかなり抵抗をし、さらに私の一撃でアゴを外されたと言う話になっておりました。しかし、私を暴行した上司は昔から喧嘩をしアゴが外れやすく、正直欠伸などでもアゴが外れる事を周りは知っています、何故なら自分で自慢していたから…さらに私の顔を見れば暴力を受けたのはどちらかハッキリしていました。私はこの時に大人のパフォーマンス土下座を始めてみました、しかし、この謝罪は私に対してでなく、所長に対する土下座、クビにはしないでくれという土下座でした。その土下座はあからさまに胡散臭く、土下座を受けた所長が「あれはパフォーマンス土下座だな」と言っているくらいでした。


どの道お互いに対する処分は本部にあげてからとのお達しでした。が、結果は私は予想しなかった方向に向かいました。

所長と暴行した上司は減給処分。私は…所長が私に頭を下げます「申し訳ない、辞表を書いてくれ」私は頭が真っ白になりましたが、無知故にそれを受け入れるしかなかったのです。辞表を書き1ヶ月後には退職がきまりました。その時は1人暮らしをしていたのですが恥ずかしながら実家へ戻る事になりました、両親には合わせる顔がなかった…。しかし、両親は会社に対して怒ってくれました、会社に話しに行こうかとも言ってくれました。しかし私はもういいよと、投げやりになっていたのです。

結局私は辞表をだして1ヶ月を待たず退職する事になります。最後の1ヶ月はしっかり勤めようと思っていましたが、仕事中、私が作業しながらお客様の対応をし、1人、2人、とお客様が増えそれも私が1人で対応するのですが、いつもならぱっと手伝いに来るパートさんたちが来ないんです、何やら楽しそうに私を殴った上司を含め3人くらいで楽しそうに作業してるんです、それもまるで急がない作業を。最初はたまたまと思っていたのですが、それが何度も続き、正直沈みました。恐らく、辞めていく人間だからいいやと思われていたのでしょう。休憩の時もその方達と私が一緒の時間になると空気が悪くなるので、私は休憩もとらなくなりました。どんどん追い詰められ、耐えられなくなり、1ヶ月を待たずに退職させて頂きました。仕事もなく友人もなくなり生きる理由は無くなりました。ただ痛いのは嫌なだけでした。何度かロープに首をかけぶらさがろとした事もあります。



※あの時私に知恵があれば…殴られた顔を治療に行き診断書を取り、法的な手段もとれたはず。警察沙汰にしたって良かったのに、当時私は無知だった。会社は切りやすい方を切った、ただそれだけだった。
当時、技術指導に来ていただいていたそれなりの立場の別会社の方から、東京に行く事になるが面倒を見てあげるよ、と言って貰えたのですが、その時の私には、それに答える気力もありませんでした。
(その方三菱商事の方だったんですよ、今思えば大チャンスだったんです、無知な自分を呪います、社交辞令だったと思う事にしています)

そして私はニートになった… その7 無知故に簡単に切りすてられる

仕事に、正式採用され、運転免許も取得し、車を買い、一見順調でしたが、納車された翌日に交差点にて車をぶつけられます。相手は年配の方で、直進の私を無視して右折し、ぶつけられてしまいます。傍目にも相手が悪いのは明らかでしたが、交差点の事故では過失責任は10体0になる事はなく、それでも9対1(もちろん私の過失責任は1)になり、保険も入りたての為使わず、車を修理しました。免許取得費用と車両購入代と、事故による修理代で貯金はあっという間に底をつき、さらに事故の件で何故か父に責められ、しばらく落ち込みました。


仕事は頑張っており、色々な事を任され常に成績はトップクラスと充実していました。しかし、プライベートでは友人もなく趣味もなく、休日になると虚しさだけが襲いかかる様な日々を続けていました。人づてに中学の同窓会があった事を聞かされましたが、私は誘われすらしません。成人式は形だけ参加しましたが、何もせず帰って来ました。私には仕事だけが生きがいになっていたのです。   


しかし、仕事でも状況は一変します、新しく赴任した上司とは正直合わなかったのです、初対面で下の名前で呼ぶ馴れ馴れしい方で、正直私の苦手なタイプの方でした。しかし、そこは仕事。それなりに上手くやっていました。が、ある日突然その上司が私が担当していた部門から私を外し、その上司が新たに担当すると言い出した事で関係に亀裂が入ります。その部門は正直調子を上げていて、結果も出ていたからです、私は当然反論しました。そして、その上司の上の2人も私が担当を外される事は聞いていなかったらしく、担当を外すと言う話は無くなりましたが、私とその上司の関係は悪化していくのです。



※高校を辞めてからこの時まで、1人になると常に死にたいと思う様になっていました、友人もいないので休日や夜は泣いている事が多かったです。

そして私はニートになった… その6 仕事に甘んじて未来を描かなかった

高校を中退した私は、辞めた事を伝えずにアルバイトを続けていました。必要とされて、お金も貰える。自分にとって居心地の良い環境でした、ただし学校を辞めた事により友人は減り、当時はまだ携帯電話も持っていなく、私に連絡をくれる方は誰もいませんでした。

寂しさを紛らわす様に黙々と働き続けていましたが、ある日突然嘘がばれます。当時お世話になっていた課長さんの奥様が私の通っていた高校に清掃のお仕事で来ていたそうでした。私は嘘をついて働いていましたが、実は最初からバレていたそうです。私が正直に話すのを待ってくれていたのでした。正直、クビになっても仕方なかったのですが、普段の働きぶりと会社の人材不足もあり、16歳でしたがパートタイマーとして雇用して頂ける事になりました。


嘘が許され、雇用条件も良くなり私は喜びました。ただ、両親は通信高校や定時制の高校を勧めてくれていたのを覚えています、私の将来を心配してくれての事ですが、私はその場の喜びに満たされ、両親の心配を話半分にしか聞いていなかったのです。将来どうありたいかなど、考えてもいなかったのです。

その後紆余曲折はありましたが18歳を過ぎた頃には私はその会社に正式採用され、保険やボーナスなど待遇も良くなり、より一層仕事に励む事となります。しかし、またしても問題が起こるのです。



※正式採用が決まった時には、両親も喜び、その後は通信高校等の話はしなくなりました。兄は大学生となり離れた都市へ、弟も高校入学となります。その当時の私はなんとなくですが、家にはお金の余裕は無いものと思っておりました。ですから、兄や弟が学生として当たり前に受け取っていたお金は一切受け取りませんでした。幸か不幸か友達もいない、趣味もないのでお金を使う事自体あまりなかったのです。

そして私はニートになった… その5 許されていた中学生活と許されなかった高校生活

甘やかされた小学校生活も終わり、中学生活が始まりました。中学に上がったばかりの当時、流石の私も頑張らなければと身も気も引き締めてスタートを切ったのですが、やはり勉強にはついていけず、体力もなく運動もできず、次第に落ちぶれていく事になります。

それでも、中学校の同級生は小学生の時の同級生とほとんど変わらず、私がおかしな行動をしていても、『可哀想な子』とされており、イジメのターゲットにされる事などはありませんでした。ただ、私と周りの空気が違う事はなんとなく感じていました。

情緒不安定になっていた私は、友達も少なく、学校をサボり家にいる事も多々ありましたが、何とか進学を決める事が出来ます。しかし、私がやりたかった機械科のある学校は遠く、家庭の金銭的な事情で地元の高校に通う事になります。(私には年上の兄と少し年の離れた弟がいるため金銭的な面は仕方ないのは理解しておりました。)


高校生活は最初は良かったのですが、流石に高校に入ると私を『可哀想な子』扱いはなくなり、甘やかされていた私を良くないと思う人間が数名いました。その数名に嫌われると、今まで仲の良かった連中もどんどん私から離れていくのを感じ、他のクラスに遊びに行くのが当たり前でした、そんな状態ですから、クラスの嫌な役割を押し付けられる様な事も出始め、学校は苦痛でしかなくなり、学校には次第に行けなくなり、最終的に高校を辞めることになります。

辞めるきっかけは幾つかありましたが、最初は体育教師にやりだまにあげられた事でした、特に何かした訳ではなかったのですが、皆の前で立たされ言われたのが、『こういう奴が一番に学校を辞める』でした。周りは笑って、教師も笑っていたのですが、私は悲しかったのは未だに覚えています。

この教師は数年後に自殺するのですが、それを知った私は恥ずかしながら、ざまぁみろと思ってしまい、自分の懐の狭さと人の死にそんな事を思う自分を情けなく思いました、それと同時に、まだ恨んでいるんだと自覚したのを覚えています。

もう1つのきっかけは、イジメにあった事。私を良く思わない方からのイジメ、嫌な役割を押し付けられたり、学校を休んだ日には花が飾ってあったり、極めつけはトイレ掃除をしている時にいきなり殴られたりと、ささいな事でしたが学校に行きたくない理由になりました。流石に殴られた時、やり返そうとしました。私を数度殴りつけた彼は、満足し小便をしていましたので、トイレモップで後頭部をぶん殴ろうとしました、正直殺してやろうと思いましたが、親の顔が浮かんで踏みとどまりました。それが私にとって良かったかは今の私を見ると解りません。ただ、家族にとっては良かったと思います。息子が犯罪者にならずにすんだのですから。


実は私は学校を辞めてもいいと思っていたのはアルバイトをしていたという事もありました、学生の身でしたが月7万程稼いでいましたから、最悪何とかなると思っていたのでしょう。その証拠に学校に通えなくなってしまった時も嘘をついてアルバイトは行っていましたから。


何はともあれ、私は学校を辞める事になります。学校に居場所はありませんでしたが、アルバイト先では真面目に頑張っていたので、そこに居場所はあったのです。辛い思いをして学校に通うより、必要とされる上にお金も貰える、学校に行けなくなっていた自分には選択肢はそれしかなかったのです。しかし、学校を辞めてしまった事は後々後悔を生むことになります。


※学校を辞めた原因を親には話していません、恥ずかしくて、みっともなくて言えませんでした。でも、アルバイト先という逃げ道がなければ、私は自殺を選んでいたと思います。通信高校や定時制という選択肢があることは当時全く知りませんでした。

そして私はニートになった… その4 大病からの復帰とその代償

小学生時に唯一私の『自信』だった学問、しかし三度に渡る入院生活により、学問でも周りから取り残される事になります。

何度目かの退院をして学校に通いだした時、算数では分数を習っていましたが、約分や通分など突然言われてもワケが解らず、さらに漢字等も習ったことの無いもの、教師も私1人の為に授業を遅らす訳にもいかず、気付いた時には運動も出来ない勉強も出来ない、さらに周りは私の病気のことを知っているので『可哀想な子』と見るようになります。

私自信もその環境に甘んじてしまい、解らない授業は受けず、絵を描いたり居眠りしたり、体育も退院後激しい運動を禁止されていたので、基本見学。やりたくない事はしない、しなくても許される。ただし、やりたいことも病気の為やらせてもらえない。そんな環境で小学校生活をおくりました。

病気により長期入院し、学問でも遅れをとってしまった時、学年を繰り下げる特別措置をとる案もあったそうです。私は年度末の3月生まれ、しかも入院生活が長かったために、体力的にも学力的にも一学年下だったそうです。この案は友達と離れる事になり可哀想だと親が反対したそうです。ただ、長期的に見た場合、その措置をとっていた方が良かったのではと思いますが、当時の私には周りの皆と学年を上がる事が当たり前だったのです。


私の小学校時代は良くも悪くも病気の思い出がほとんどです。10代後半に当時仲の良かった友達に会い、言われた事があります。それは、『私君は勉強もできて頭も良かったのに、病気してからおかしくなったよね』の言葉でした。その時初めて、私自身が曇っていく原因に気付かされたのでした。



※入退院を繰り返し病気が完治した頃、入院中も治らなかった夜尿症(おもらし)が無くなりました。

もし、小学校にあがりいつまでも夜尿症が治らない子がいましたら、何か病気につながるサインなのかも知れません。因果関係は解りませんが、もしも夜尿症に悩んでいる子がいる方は注意して見てあげて下さい。

そして私はニートになった… その3 大病

小学校中学年、ある朝私に悲劇がおきます。身体中に赤い点々が浮かび上がり、口の中にはたくさんの腫れ物、そして何より鼻血が止まらない。

親が慌てて病院に電話をし、病院に症状を話すと、症状を聞いただけで、地元の病院では対処が出来ない、車で二時間はかかる隣町に行って下さいと指示がありました(この病の原因がハッキリしてから地元病院でも対処出来るようになりました。)

車で隣町に向かっている最中、鼻血は数時間出続け、貧血により意識が朦朧としていましたが母親が泣いていたのはハッキリ覚えています。白血病だと思っていたそうです。

隣町の病院では即入院、検査の結果によると、血を固める作用を持つ血小板が0になる病気と判明し、もし頭をぶつけて内出血等おこしていたら、普通に死んでいたそうです。とはいえ予想していた最悪、白血病ではなかったので親は安心したようでした。


しかし、絶対安静により1ヶ月以上の入院を余儀なくされ(豆腐の角で頭をぶつけても本当に死んでしまう状態、鼻をかむと鼻血が数時間とまらない、ぶつけた覚えがないのに身体中内出血であざだらけ)私の『自信』であった勉強でさえも同級生より遅れていく事となるのです。

私はこの病を小学生時に3度発病し、その度に1ヶ月以上の入院をしました。



※この血が出たら止まらない病気、しっかり学名があります。ただ、普通の方は一度発病し完治すれば二度とかからない病気だったのを、私が3回も発病した為に、新しい病名を頂きました、身バレの恐れがあるので病名については伏せさせて頂きます。